雑談

「写真を撮ると記憶が薄くなる」そうです。

最近では、運動会などのイベントでは、自分の子供の出番の撮影は必須といってよいでしょう。小学校の入学式で撮影エリアが用意され、式の最初から最後まで、映像を撮影してる人もいるほどです。たしかに、一生に一度きりのものですから、写真や映像を残しておきたい気持ちは誰にでもあるでしょう。

しかし、昔の入学式では、式の最中に個人で写真を撮影している人はいなかったと思います。それでも後になって、「入学式の写真が少ない」というようなことを言い出す人はいませんでした。今では映像や写真は多いほど良い、というような風潮です。映像や写真が我々にどういう影響を与えるのか、撮影という行為が及ぼす影響について少し考えてみましょう。

手段の目的化

私の子供が通園していた保育園の運動会で、実際にあった話です。運動会には保護者参加型の競技があるものです。そのときは、親子で一緒に障害物を越えてゴールする、というような競技でした。運動場のトラックのまわりには、ビデオカメラや望遠レンズをつけたカメラを構える保護者が、自分の子供の写真を撮ろうと鈴なりになっていました。

私も写真を撮ろうと、その列の中にいたのですが、何やら凄そうなビデオカメラを構え、使用禁止のはずの三脚を脚を広げないようにして使っている、いかにも撮影に気合の入っているお父さんが私の隣にいました。そこに、保育士の女性が何やらあわててやってきて、そのお父さんに呼びかけました。

「○○君のお父さん!親子競技なので○○君の相手をお願いします!」
「え?!ママが行ったでしょ」
「いえ、来てないんです!○○君が一人なんですぐに来てください!」
「いや、だってオレ撮影だから・・・」
「もう始まっちゃうんです!とにかく、すぐにお願いします!」
「え、え~!でも・・・」
「お願いします!」

てな感じで、最終的にはお父さんは渋々ビデオ撮影をあきらめ、競技に参加するために駆けつけて行きました。たしかに母親たちからの「ちゃんと撮ってね!」的な撮影へのプレッシャーはけっこうあります。しかし・・・親子競技だから、子供が一人で参加するわけにもいかんでしょうし、ねぇ。一体ママはどこに行ったのか?というのはあるにせよ、手段が目的化してしまっていて、本人もそれに気付かないという悲しい例ですね。

「思い出」とは何か

アメリカの大学で、撮影に関する興味深い研究があります。
写真を撮ると記憶が薄れる?
少しサンプル数が少ないような気もしますが、たしかに、撮影するより撮影しない方が、強く記憶が残るような気がします。例えば、演劇や舞台を見るとして、写真や映像を撮影しながら見るのと、ただ鑑賞するのとを比べたら、鑑賞のみのほうが、より感動を味わえるのは間違いないでしょう。

昔は、リアルに体験したうえで、「思い出」や「記憶」が残り、後にそれを思いだすための補助にする目的で写真を使っていました。あくまでも脇役、というのが今までの写真のありかたでした。今では映像が簡単に撮影でき、映像では最初から最後まで起こったことを記録できますし、その場にいなくとも結果のみならず、臨場感までも伺い知ることができます。

しかし、我々は「リアルに体験する」ということを少し意識してみてもいいかも知れません。本来、入学式や運動会は「後日に鑑賞するための写真や映像を撮影するためのイベント」ではありません。その式典やイベントでのリアルな感動や感傷にこそ意味があるのです。と言いつつも、私もきちんと撮影していないと、確実に怒られます。なので最近では、全部の時間を撮影に集中するのではなく、撮影量を減らしてリアルで感じることを意識しています。

「水平線に沈む、素晴らしい夕日」に遭遇したとき、「黙って静かに見入る」のと、「写真を撮り続ける」のとでは、体験としてかなりの違いがあるのではないでしょうか。日本人には後者のタイプが多そうです。どちらが正しいということではありませんが、少し考えてみても良いテーマではないしょうか。

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